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ごちそうさまに生きる人。 ザ・ブラインド・ドンキー  原川慎一郎

The interview of FOOD people

ごちそうさまに生きる人。 ザ・ブラインド・ドンキー 原川慎一郎

世界でも有数の食の国、日本。人びとの関心は常に高く、新しいお店が続々と誕生しています。では、どんなひとたちがいまフード業界を支えているのか? そのなかでもフイナムではスタイルをもったひとたちに注目しました。たしかにおいしい食事はただ味わえればいいという考えもありますが、映画や音楽と同じく、その食事に込められた想いやつくるひとのストーリーを知ることは、その一品をより複雑に味わい深く楽しませてくれるはず。第一回を飾るのは、神田の「ザ・ブラインド・ドンキー」の原川慎一郎さん。アメリカの食文化に革命を起こしたとも言われる、バークレーにあるオーガニックレストラン「シェ・パニース」で長年ヘッドシェフを務めたジェロームさんとともに、お店をオープンしたのが2017年。人気レストランが集まるホットエリアとは言えない神田というエリアで、日々お店を切り盛りする原川さんは、どんな道を歩み、そのインディペンデント精神を育んできたのか。食にまつわるバックストーリーをお届けします。

  • Illustration_Michiko Otsuka
  • Edit_Shinri Kobayashi
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原川慎一郎 / 「ザ・ブラインド・ドンキー」シェフ

静岡県生まれ。渋谷のお店で修業の後、渡仏。帰国後、三軒茶屋の「uguisu」などのレストラン勤務を経て、2012年に目黒にレストラン「BEARD」をオープンし、話題となる。2017年、バークレーにあるアリス・ウォータースの「シェ・パニース」元総料理長であるジェローム・ワーグとともに、東京神田にレストラン「ザ・ブラインド・ドンキー」をオープンした。

シェ・パニースのすごさは味だけじゃない。

ぼくがアリス・ウォータースの「シェ・パニース」に衝撃を受けたのは、いち早くオーガニックや地産地消を提唱していたからじゃないんです。彼らの、自分たちが楽しもうとする働き方やスタイルにびっくりしました。それまでにぼくが働いていたどのレストランでも、もっとスピーディに仕上げろ! もっともっときれいに盛り付けろ! というプレッシャーが常にありました。一方、「シェ・パニース」のスタッフは、「ハロ〜、今日は何しようかね」です。

ここで初めて、「あ、料理って楽しみながらやっていいんだ」っていうことを発見しました。で、実際に食べてみたら、ものすごくうまい。その後でようやくオーガニックや地産地消ということを知ったんです。

ジェロームと一緒にやっている「ザ・ブラインド・ドンキー」も同じで、まずは安心できて、うまい食材をベースにして、料理を提供しています。おいしい食材を生み出してくれる地球を庭と捉えて、自然への敬愛や環境に対する意識を無理なく啓蒙できればと。こういうことって、大きな資本のバックアップを受けてしまうと難しいんですよね。だから、ジェロームとはインディペンデントであること、二人で協力して困難を乗り越えていくこと。これが二人の共通認識です。

中学・高校〜カナダ〜日本へ。くすぶっていた頃。

こういった独立心は、育った環境によるかもしれません。静岡で育ち、中学から高校までの6年間は全寮制のカトリックの学校で過ごしました。カナダ人の先生がいた縁などもあり、2週間ほどカナダに留学したことがあり、そこで考えたのは、どうしたらいち個人として、人間同士対等に扱ってもらえるかということ。当時の、なんでもぺこぺこして、イエスしか言わない日本にコンプレックスを感じていたんですよね。

高校卒業後は、両親や祖父母を説得して、カナダの大学に入るんですが、アメリカと同じく、カナダも移民の国でした。当然のように、いろいろな国のひと、たとえば、東欧、中東、メキシコ人とかと、よく家に各国の料理を持ち寄って、飲んで、交流していました。料理を通して文化を知るという感じですね。かれらはマイノリティでも、しっかりと自分を主張して表現するというのが印象に残ってます。

その後、カナダの大学を卒業して、ちょっとブラブラして、2002年日韓ワールドカップが観たかったのと、京都に縁があって働き口を見つけたので、帰国しました。京都での仕事は、旅行会社です。料理とはぜんぜん関係ありません。

でも、あの時期は今思うと鬱だったんじゃないかな。相当落ちていた時期ですね。20歳前後の思春期を含めて、トータル5年近くカナダで過ごして、日本でいきなりサラリーマン。日本の空気になじめなくて…、どうするんだろ、おれ…と思ってました。

その後、翻訳家になろうと英語を勉強して、一旦静岡に戻り、機を狙って、東京に出てきたのが23、4歳頃。NHK系列の海外の番組を買い付ける会社にうまく入れて、英語を使って仕事をしていました。でも結局、この仕事も自分のなかでこれだ! とは思えませんでした。のめり込めるものをずっと探し続けていましたね。仕事以外ではクラブに行ったり、飲み歩いたり…。

2005年頃かな、カフェでもない、レストランでもない、ビストロができ始めたころ、そこにおもしろいひとたちが集まり始めていると感じたんです。海外のカフェにも近しいものがあって、お酒もあれば、ちゃんとした食事もある。騒いでいる人もいれば、本を読んでるひともいる。音楽も鳴ってる。ひとが集まり、コミュニケーションが生まれていくところは、クラブとも通じます。

こういう情報や人が交流していく場所を作りたい、そのためには料理ができたほうがいいと思って、本格的にはじめました。日本やフランス、奥沢のレストラン、三軒茶屋の「uguisu」で、自分の時間も削って頑張って料理を勉強して、目黒に「ビアード」を開いたのが、2011年頃。

目黒のビアードで立ち返った原点。

「ビアード」は、家みたいにリラックスできる場所にしたくて、力を抜いて、自由にやっていたことがユニークだと思ってもらえたのかもしれません。ふりかえると、そんな場所と雰囲気をよく覚えているんです。静岡の幼少期、ばあちゃんっ子だったんですが、祖母は婦人会のリーダーみたいなことをやっていて、家にたくさんのひとがあつまって料理したり、食事を一緒にしたり…。カナダ留学時代もみんなで家によく集まって、世界各国の食事を楽しんでましたから。

「ビアード」をやりながら、野村友里ちゃんを通じて、ジェロームの食をテーマにしたアートプロジェクトを手伝ったりした縁で彼と知り合うようになりました。「ビアード」をはじめて5年くらいたったときに、ジェロームと一緒にお店をやりたいね、東京でどう? いいね、なんて話しました。でも、もし彼が来るなら、そのタイミングしかないので、「ビアード」はたたんでも全然よかった。その方が絶対に楽しくなるなあと思ったから、「ザ・ブラインド・ドンキー」をはじめました。自分たちがまずは楽しむことは忘れたくないですね。

the Blind Donkey

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#FOOD
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