俳優という仕事はなにができるのか。
ー今作品は、震災を想起させるようなハードな状況を、ユーモラスに描いているので、鑑賞後もずしーんと重い感情になるわけではありません。とはいえ、こういうハードなものを笑いで上手に包む作品というのは、いまの時代には一歩間違うと…と考えてしまうのですが、演者としてその辺りへの不安や、逆に覚悟はあったのでしょうか?
Ikematsu:なんて言うのか、数多ある人の情念みたいなものと向き合うことは俳優として常々あります。この国の俳優として、人として、作品を通して、演じることを通してこうして向き合う機会をもらえるというのは特別なことだと思っています。
自分は当事者じゃないけれど、この仕事だからこそ向き合うことができた出来事も沢山あります。または物語だからこそ、語れることが沢山あると思っています。その距離感などが難しいこともありますが、3.11から12年がたち、コロナを経験し、もうすぐ戦後80年を迎えようとしている。そうした自分たちが辿ってきたこと、大きくいうとこの世界の姿を無視して表現という仕事はできないとは思っています。
今作に関してはそういった様々な出来事や時代の変化によって失われゆくもの、忘れられていくことに対するささやかな抵抗になればと思っていました。
Watanabe:すごくよくわかりますね。自分が作品に参加させてもらうときは、あくまで俳優として作品の意図しているものを物語として伝える、物語をよりうまく伝える人として参加する心算でいるので、自分の思想をそこに入れようとは思っていません。でも、一番大事だなと思うのは、正解とか結論を出すことじゃなくて、みんなが考えを持って、伝え合うこと、耳を傾け合うことかなと。
それは表現に関わらず、常日頃からそう。何か問題が起きてもどっちがいいとか悪いとかを裁判するんじゃなくて、尊重し合える関係性が作れたらいいですよね。この作品がそういう話し合いの“種”になってくれたらいいなと。
ーたしかに、この作品自体が描いていることも、まさにみんなが腹を割って話しあうということでしたよね。太賀さんは?
Nakano:映画もドラマも舞台もそうですけど、たとえば実際に起こった凄惨な事件や災害を題材にして物語をつくるということはたくさんあります。でも、題材やタイミングによって、また直接的に描き過ぎたことによって、それが鋭すぎて、受け取る側が受け取りきれずに拒絶してしまうこともある。
でもこうやってフィクション、ましてやユーモアを交えて、作り手のアイデアや創意工夫を盛り込むことで、本来伝えたかったことが、より伝わりやすくなることもあるはずです。受け取り手が10人いれば10通りの感じ方で、僕ら作り手以上に豊かにその作品を受け取ってくれるような気もします。
作品を通じて、時間が経過して忘れられてしまったことや小さな声を拾って観客に届けるということを、仕事として、表現としてやれるのは、役者の使命とまでは言わないけど、誇らしいし、とても大事なことだと考えています。